市〜Atami.City〜  
 
熱海市の歴史について 2004/12月
総人口 42,118人 (前月比▲20人)
男   19,130人 (前月比▲6人)
女   22,988人 (前月比▲14人)
世帯数 21,204世帯
 
 
写真提供:熱海観光協会様

写真提供:熱海観光協会様
 

ここに、記述する文は、熱海図書館より「熱海 熱海市役所編」で記載されていた文章です。

熱海の名稱
  熱海の名はあつうみの転であるととも、あつ水の略であるともいわれている。その昔、温泉が海中で湧き出して海が湯のようにあつかったので、熱海といわれたという。久順見、葛見の庄、又は磯山の里といった事もあるが、東鑑の建保元年(1213)の篠にはじめて、伊津国阿多美郷とあり、足利時代の?義堂の日工集、宗長記の東国紀行、北條役高帳にも皆「熱海」としるされている。天正18年(1590)の豊臣氏の文章の中には「あたみ郷」と記してあるものもある。旧記には「熱海の地は中世磯山の里と云えいしも、往昔、熱海の名あれば、古き名に復して熱海と称せり」とみえている。

2004年に(記念イベントとして)徳川家康が江戸幕府を開いた後、1604年に湯治目的で来熱してから、400年目にあたります。温泉組合が記念事業として熱海駅前に建設(熱海市に寄贈)した足湯『家康の湯』は連日大盛況です。

徳川時代の熱海(1603〜1868)
  徳川家康の天下となって、世が平和になると共に熱海も次第にひらけてきた。それまでは伊豆山神社を中心とした時代であったのが、漸く大湯を中心とした温泉湯治場として発展してきたのである。まづ慶長9年、家康は再度、五郎太丸義利、長福丸ョ宣をつれて、京に上る途中熱海へよって17日間滞在したと伊豆誌にみえている。降って寛永3年(1626)、三代将軍家光は熱海に御殿をつくったが、故あって1度も来られず、御殿は取り毀しになった。その代わりに毎年数回期を定めて大湯の湯を江戸城本丸西丸へと送る事になった。これが御汲湯と称するものである。御汲湯には厳格な規制があり、湯戸(一名湯亭)27軒が指定され、その主は将軍家から帯刀御免の特権が与えられた。江戸城献湯にあたっては、17軒の主が各自覆面をして長柄の槍柄杓で大湯の熱湯を新しい檜桶にくみ、書夜兼行で江戸城へ運ぶのである。その道中には日の丸をたててゆく習わしなので、「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯がゆく」とうたわれた。御汲湯はもと陸の交通によっていたが、後に船になった。享保11年(1726)から19年までに3642樽を送り、天明4年(1784)から5年までの間に229樽送った由、当時の名主の記録がある。又将軍家にならって、江戸の13軒の風呂屋も熱海から温泉をとりよせて営業成績をあげたといわれ、熱海の名は次第に有名となっていった。元の本陣、今井半太夫方の宿帳をみても、江戸時代全体を通じて、熱海に来浴の諸侯大名がいかに多かったかがわかるが、とりわけ寛文以降に多かったようである。半太夫方の記憶によれば寛文年中にはかなりの災禍があり、9年2月5日丑の刻より火災起り村中殆んど全滅した。又10年8月27日に洪水、同11がつ11日に再度の火災で百余戸をやいた。

もっと詳しく知りたい方は、熱海図書館へどうぞ

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